歴史館
創業者 小松光
大正3年、百姓を営む小松家の長男として生まれる。
教育熱心な父の方針から高等小学校まで進むが、結局は家業の農業を手伝うことになる。
しかし、農繁期以外の現金収入を確保すべく父を説得し上京。
溶接所や工業所を転々とし様々な技術を身につける。また新橋電気溶接学校夜間部へ入学し自力で卒業した。
この頃の経験と苦労がその後事業を興す礎となる。
終戦後の復員間もない昭和21年、実家敷地内に建坪6坪の小屋を立て、農機具の製作修理、家庭用品(魚焼・餅焼用網、五徳など)の製作修理を行った。
戦争直後で生活必需品の不足から、製品は造ったそばから飛ぶように売れたという。
昭和23年9月”有限会社 小松溶接工業所”を創業。
その後、会社を株式会社へと拡大し、ステンレスタンクや特殊板金製作を請負うようになっていく。
また宇都宮市西地区の同業者へ逸早く呼びかけ、陽西鐵工共同組合(現「(一社)栃木県鉄構工業会」の前身)の発起人となり初代理事長を務めるなど、同業・関連企業団体の役員として広範囲に渡ってその手腕を振るっていた。
教育熱心な父の方針から高等小学校まで進むが、結局は家業の農業を手伝うことになる。
しかし、農繁期以外の現金収入を確保すべく父を説得し上京。
溶接所や工業所を転々とし様々な技術を身につける。また新橋電気溶接学校夜間部へ入学し自力で卒業した。
この頃の経験と苦労がその後事業を興す礎となる。
終戦後の復員間もない昭和21年、実家敷地内に建坪6坪の小屋を立て、農機具の製作修理、家庭用品(魚焼・餅焼用網、五徳など)の製作修理を行った。
戦争直後で生活必需品の不足から、製品は造ったそばから飛ぶように売れたという。
昭和23年9月”有限会社 小松溶接工業所”を創業。
その後、会社を株式会社へと拡大し、ステンレスタンクや特殊板金製作を請負うようになっていく。
また宇都宮市西地区の同業者へ逸早く呼びかけ、陽西鐵工共同組合(現「(一社)栃木県鉄構工業会」の前身)の発起人となり初代理事長を務めるなど、同業・関連企業団体の役員として広範囲に渡ってその手腕を振るっていた。
創業当時
昭和29年4月、有限会社小松溶接工業所から株式会社小松鐵工所へ改組する。
更に昭和31年3月には、事業拡大を計るため長年居住した古家を取り壊し、その一部に新たに工場を建設した。
写真は、創業の地 宇都宮市鶴田町三の沢にあった旧工場の様子。
更に昭和31年3月には、事業拡大を計るため長年居住した古家を取り壊し、その一部に新たに工場を建設した。
写真は、創業の地 宇都宮市鶴田町三の沢にあった旧工場の様子。
昭和30年代
まだ半自動溶接がなかった頃
4面ボックスコラムを手アーク溶接でやっている様子(現代の構造と違いを感じます)
チェーンブロックで反転していたのでしょうか?
4面ボックスコラムを手アーク溶接でやっている様子(現代の構造と違いを感じます)
チェーンブロックで反転していたのでしょうか?
製缶現場で従業員揃って記念撮影
やぐらと高架水槽
当時使用していた3輪のトラック (時代を感じます)
当時使用していた3輪のトラック (時代を感じます)
現工場の建設
昭和39年12月、将来への構想を練り工場の再拡大のため宇都宮市上横田町1101番地へ事務所・工場を移転。
また、同時に1,000万円の設備を投資した。
当時としては近代的な工場であり、鉄骨製作建方は自社施工により実施した。
また、同時に1,000万円の設備を投資した。
当時としては近代的な工場であり、鉄骨製作建方は自社施工により実施した。
現工場への移転以降
昭和40年代
当時の構内運搬の様子 (トラック2台を背合わせにして1つの製品を運んでいる)
二人のドライバーの息が合わないと大惨事になりかねません
当時の構内運搬の様子 (トラック2台を背合わせにして1つの製品を運んでいる)
二人のドライバーの息が合わないと大惨事になりかねません
工場から大型製品の搬出風景(昭和52年頃)
早朝、国道4号線を全面通行止めにして行われています(今ではとても無理です)
早朝、国道4号線を全面通行止めにして行われています(今ではとても無理です)
徐々に大型製品の受注も増えてきました
100KLタンクにも対応するため、工場内に15tonクレーンを設置することになります
100KLタンクにも対応するため、工場内に15tonクレーンを設置することになります
昭和56年 工場内に15tonクレーンが設置されました
ほぼ現在の工場風景です
ほぼ現在の工場風景です
平成30年5月吉日
株式会社小松鐵工所 創業70周年を記念して
株式会社小松鐵工所 創業70周年を記念して